東京弁は感染るんです
日本が決勝リーグでトルコに敗れたときも、大阪では道頓堀に飛びこんだ人が何百人もいたらしい。
しかし神戸では川にダイビングした人は一人もいなかったはずである。 神戸には飛びこめるだけの水量を湛えた川がないのだ。 神戸の川はどれも全長が数Kmぐらいしかなく、山から海へ一気に駆け下りるので普段は水がほとんど流れていない。 だから神戸の川で、日本が勝ったら飛びこみ、負けても飛びこみ、阪神が勝っても飛びこんでいたら確実に頭から血が噴出して命がいくつあっても足りないのである。 (まあ本当のところは、神戸人は大阪人と違っておしゃれでプライドが高いので、ドブ川になんか飛びこみたくなかっただけだと思うが。。。)
理髪店で「かゆいところはありませんか」と聞かれて、たとえかゆかったとしても「ない」と答えてしまうのが東京人で、たとえかゆくなくても「全部」とか「耳の中」とかリアクションするのが大阪人だとか。まあ、大阪人でなくとも関西人ならこれくらいは言うと思う。
かゆくてもかゆいと言えない東京人は「えぇかっこしぃ」なのか「恥ずかしがりや」なのか。 私も最近は東京弁が感染しているだけではなく行動も東京人化してきて、「かゆいところはありませんか」と聞かれてもかゆくないと答えてしまう。 これではいけない。こんどき聞かれたら「足の裏」とでも答えようか。
会社帰りの電車でリュックが背負った幼稚園ぐらいの男の子と大きなバッグを持った若い母親が座っていた。
するとバッグの中でけたたましい携帯の着信音。 (今車内で携帯電話の電源は切れっちゅうアナウンスがあったばっかりやろ!せめてマナーモードにしとかんかぃ!)と思った瞬間 「あっ、もしもし、ごめぇーん。まだ電車の中やねん。着いたら電話するわぁ。ごめんねぇ」と東京弁には感染していない美しい大阪弁。 この大阪弁を聞いただけでマナー違反を非難する気持ちがすーっと消えてしまい、逆に親しみを感じてしまった。見知らぬ異国で日本人に遭遇するのと同じ感情だろうか。(大袈裟)
「バベルの塔以来こんなに多くの言語に分かれているは、要するに、ほかの言語では言えないことを言う必要にせまられて独自の言葉が発達しているからである。」
外山滋比古著「日本語の個性」に書かれていた一文である。 方言も同じだと思う。 例えば、関西弁の「あほやなぁ」は東京弁では表現しにくい。「あほやなぁ」と言っても別にののしったり見下しているのではない。 「ばか」には他人を突き放すような冷たい響きがあるが、「あほ」には他人を思いやる暖かい心があるのだ。(ほんまか?) |